川上幸之介 / 彦坂敏昭:カメラ・ルシーダ |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2011年 9月 30日 |
《Dam 6》 2011年 | 760 x 500mm | mixed Media collage on Paper | Copyright© KAWAKAMI Kounosuke | 画像提供:アイショウミウラアーツ ロンドン在住の作家、川上幸之介と彦坂敏昭の2人展。 Camera lucida(カメラ・ルシーダ)とは、画家が素描やスケッチを描く際に用いた光学的な補助装置のことをさしています。画家はCamera lucidaを通して対象物を覗くことで、描く対象と描画する画面とを同時に重ねながらみることができ、それによって視覚体験と近いかたちで対象物を描くことが可能になります。つまり、画家は装置の助けを借り、自らの視点と対象の関係を決定することで(ここでは画家が画像に対し従属的に寄り添うこと決定している)、描くことに至っていると理解することができます。 また、現代においては絵画を制作する際に写真(装置によって自動的に作られた画像)を使用することはもはや特筆されるべきことではなくなったほど、多くの画家が、絵画の中にそれらが入り込むことを許可しています。 今一度、Camera lucidaという装置及び概念を呼び戻したのは、描くことの一連のプロセスの中にこの装置の介在を想定することで、その関係の諸要素を再び浮かび上がらせようとする試みでもあります。そこですぐにわかることは、Camera lucidaの場合には、画家がどのように画像(対象物の像)と関わるのかを決断するチャンスがかなりの割合でそのプロセスに存在するのに対し、写真にいたっては、そのチャンスがカメラというブラックボックスの中にしまい込まれてしまっているのではないかということです。 実際に、川上幸之介と彦坂敏昭のふたりは、Camera lucidaを使用して絵画を制作しているわけではなく、写真を使用し描くことに至っている画家です。ですが、私たちがこのふたりの絵画制作をつまびらかにしていく際に、その背景へCamera lucidaの在り様を透かしてみることは、画家が写真との関係の中でどのような制作主体を立ち上げようとしているのかを理解するための新たな道具立てとなると考えています。 さらにいえば、私たちの〈生〉そのものが、平準化に突き進む現象に対し、従属することなく抗うことでのみ意味を見出し、維持されていることを考えれば、私たちは改めて、彼らが画像への介入によって獲得したその主体性から、画像や写真によって平準化する世界の中での新しい〈生〉の在りようを問うことができるのではないでしょうか。 全文提供: アイショウミウラアーツ 会期: 2011年10月1日(土)~2011年11月5日(土) |
最終更新 2011年 10月 01日 |