更新に憑く—可塑的な無人島— |
展覧会 |
執筆: カロンズネット編集 |
公開日: 2010年 8月 25日 |
「更新」とは、"死んでいる"とされる状態(仮死状態)から、"生きている"とされる状態に戻すこと、古くなったものや利用価値を失ったものに与えられる処方箋であり、形象、機能、記憶を失いつつある状態が、別様・別名に変身しながら再開しようとする一連の運動である。そこには複数の可能世界からの干渉と、それが生み出す亡霊が捏造され、取り憑いている。 「更新」は時に違和をもって立ち現れる。それは場所性の断絶や、強制的な変形、変身、非歴史的身振り=忘却、新たに捏造された固有名詞=別名に由来する。そこでは形象、機能、記憶を失いつつある状態への処方箋として「更新」が要請されるのではなく、更新それ自体に形象、機能、記憶を失わせ=過去のものに変形させる契機と、そのものを残滓へと書き換える契機が従属している。換言すると、「更新」には「解離」の契機が内在している。 解離をその条件とする想像力は、あらゆる関係が真なるものとして決定的に固まることがなく、誤って組み替えられうる=別様であるかもしれない状態へと自らを複数化させ、再開=更新を夢に見る。 「更新に憑く」と題する本展は、秋葉原にある旧中学校を更新することで始動した3331内の一画(旧教室/旧廊下/旧図書館)アキバタマビ21で問う「更新」という出来事の「潜在性」を、11人の表現者+2人の哲学者により「更新するもの、変身、変形してしまうもの」への応答可能性として共現前化、現動化する試みである。 多様な仕方で行われる「更新」を通して立ち現れるもの。それは、一所に留まりながら、そこに住まい直し続けることにより始動するここではないどこかへの移動可能性であり、そこに内在したままで行われる異なるものへの生成変化であり、別名と化した変異体への新たな通信手段である。 更新とは、かつてあったそのもの自体からの「隔絶」を通過して行われる「再開」の異名であり、これらは無人島の原因と理由に深く関わる。 出品者 パフォーマンス シンポジウム ※全文提供: 更新に憑く—可塑的な無人島— 運営事務局 会期: 2010年9月11日(土)-2010年10月10日(日) |
最終更新 2010年 9月 11日 |
「更新」という出来事の「潜在性」をテーマに、絵画、彫刻、写真、インスタレーション、映像、小説などを表現とする多摩美術大学出身の11名のアーティストと2名の哲学者による展覧会。
「更新」という言葉は、新しく改めることを意味する。世界記録の更新という使い方もされるが、日常的に使われている言葉でもある。賃貸契約の更新やホームページの更新、あるいは美術史を始めとする歴史は書き換えられる「更新」の歴史だとさえ言えるかもしれない。日常に過ぎゆく時間でさえ、かつての「私」の更新だろう。つまり、「更新」とは、これまでの記録や内容を改め、継続することを意味する。このように「更新」とは特殊な用語ではなく、私たちに「憑いて」いる。
では、更新されたギャラリー空間に現れた本展の作品たちは、更新の継起と連続をどのように外在化したのだろうか。
「更新」というテーマをもっともシンプルに提示しえたのは酒井一有だろう。会場の窓ガラスに展示される『わたしの生まれて育ったところ』(2010年、インクジェットプリント、OHPフィルム他)や文字通り会期中「更新」されるブログ「わたしの生まれて育ったところ」(http://ameblo.jp/fukaimiho/)では、日常のできごとが「嘘と真実が 嘘と真実が/いつも いつも 裏表」※1の散文的日記を読むことができる。
神宮巨樹の写真作品『VACUUM』(2010年、インクジェットプリント)は工事現場の仮囲いを撮影した写真だ。都市の中の建物が「更新」されゆく過程は、都市そのものが「更新」されゆく場であるとことを再認識(更新)させる。
谷美桜里の『Pillow-one week – Sunday~Saturday』(2010年、枕、絵の具)は、廊下の上部に7つの枕にドローイングを描いた作品だ。それらは、睡眠前に枕にドローイングを描き、裏返して就寝し、起床後に就寝前に描いたドローイングを思い出しながら描いて完成させたものだという。枕の裏表に現れるドローイングは、睡眠により失われる記憶の欠落の反映であり、睡眠という名の「更新」を見ることができるだろう。
その他、小林耕二郎、庄司朝美、鷹野健、田中智美、久村卓、前野智彦、三田健志、村田峰紀など、気鋭の作家が終結した展覧会として次回展示に「更新」される前に見ておきたい展示である。
※1: 「私が生まれて育ったところ」野路由紀子(作詞・作曲:聖川湧)、『平凡ソングVol.2 昭和40年代2号』収録、BMG JAPAN、2008年