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中原浩大:paintings
レビュー
執筆: 安河内 宏法   
公開日: 2011年 7月 05日

A:ペインティングとドローイングの対立から
    中原浩大の個展は“paintings”と題されていた。そのタイトルを日本語に訳せば、「絵画」となる。しかし、実際に展示されていたのは、絵画作品ではなかった。
     あるいはペインティングという語を、ドローイングという語と対応させるのであれば、より限定的な意味を持つ。すなわち、前者は色を塗り色面を作り出すことであり、後者は線を引くことと区別される。※1 しかし展覧会タイトルをこのような意味で理解したとしても、同展を一目見た場合の印象とは照応しない。同展は、絵画でもペインティングでもなく、ドローイング作品が主として展示されていたように感じられたのである。
     ではなぜ、同展は“paintings”と題されているのか。
     本レビューはさしあたりこの疑問について考えてみるが、まずは出品作品を概観することからはじめる。出品作品は下記ふたつに大別できる。

[fig.1] "A-movie, B-movie / DVD Stack Edition"
2009 - 2011, Installation View
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.2] "A-movie, B-movie / DVD Stack Edition"
2009 - 2011, Installation View
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.3] A-movie
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.4] "Beads [exp.01]" plastic beads
216x172.8cm, 2011
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.5] "PAINTING - beads [exp.02]"
plastic beads,14x14cm, 2011
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.6] B-movie
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.7] "Beads [exp.01]" detail
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.8] Exhibition View
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.9] Installation View
Courtesy of Gallery Nomart

[fig.10] "PAINTING - beads -edition [exp.01]"
plastic beads, paper
15x15cm (each), ed.20, 2011
Courtesy of Gallery Nomart

(1)DVDにもとづく作品 [fig.1] [fig.2]
① A-movie,B-movie / DVD Stack Edition
    盤面にドローイングを施したDVD50枚を、同じくドローイングを施したバルクケースに入れた状態を1セットとする作品。本展には20セットを展示。DVD1000枚の壁面に、20個のバルクケースはテーブルの上に展示している。なお、それぞれのDVDには、96年に発表された映像作品《A-Movie/B-Movie》がおさめられている。

② 映像プロジェクション [fig.3]
    A-Movie、B-Movie、C-Movieの3部構成。A-MovieとB-Movieは、上記①に納められている映像で、C-Movieは①の盤面のドローイングを盤ごとスキャンしたもの(支持体としてDVD盤も映し出される)。A-MovieとC-Movieは、どちらもドローイングイメージが延々と高速で切り替えられていく。その様はあたかもパラパラ漫画を思わせる(しかし各イメージはパラパラ漫画のようには連動していない。それぞれに独立したイメージが高速で写される)。2部であるB-Movieには、ドローイングイメージは登場せず、青色、黄色、赤色といった光が、その他のパートと同じく高速で切り替わっていく。

(2)アイロン・ビーズを使ったもの [fig.4] [fig.5]
① 直径14ミリのビーズを長方形に並べたもの。その下には上記のDVDの盤面に描かれたような「落書き」が、ビーズを使って象られている。
② 直径9ミリのビーズを白い紙の上に円状に並べたもの。全部で20点あり、ビーズの配置はそれぞれに異なっている。

    このように、出品作品にはドローイングが多い。(1)の大半はドローイングである。(2)の①における「落書き」もまた、ドローイングと呼べるだろう。

    しかし、冒頭に記した疑問を考えるにあたって、以上の指摘は重要ではない。というのも、本展ではドローイングが、そのままドローイングとして提示されているわけではないからだ。

    上述のとおり、(1)では①を素材に、②が作られていた。その映像を見ている鑑賞者は、仮に「何を見ているのか」と問われたら、「ドローイングの映像」と答えるだろう。しかし実際のところ、鑑賞者の目が捉えることが出来るのは、ドローイングイメージの断片に過ぎない。高速でイメージが切り替わっていくために、個々のドローイングの全体像を完全に把握することは出来ないからである。従って、映像から鑑賞者が受け取るものは、ドローイングイメージの漠とした集積とでも言うべきものである。[fig.6]
    こうした印象は、B-Movieの介在によって強調されるだろう。上述の通り、それは複数の色の光の明滅であり、ドローイングイメージの登場するA-MovieやC-Movieとは異なっている。しかしここではそうした違いよりも、共通性の方が強く感じられるのではないか。
    ドローイングイメージから光の明滅を経て、再びドローイングイメージへ。B-Movieは、A-MovieとC-Movieの捉えがたさを別の方向へと転換する。A-MovieとC-MovieをB-Movieのように見ることを、すなわち、切り替わっていくドローイングイメージをひとつひとつの個別性に着目し見るのではなく、光の移り変わりとして見るように促すのである。[fig.7]
    (2)も同様である。ビーズを組み合わせる(2)は、新印象主義の点描技法に似てはいる。しかし新印象主義が概して補色関係にある色彩を並置するという手法を取るのに対し、ビーズの並べ方はアトランダムである。そのためビーズ同士の色彩が違いに補い合うのではなく、発色の良い個々のビーズが互いに色彩を主張しあう。結果、全体として、モアレ状の色彩のうごめきが作り出されるのである。

    このようにしてドローイングやビーズは、線や点という平面上の限定された領域から超え出る。「ドローイングイメージの漠とした集積」「色彩のうごめき」と記したとおり、それらは広がりのあるもの、すなわちペインティング的なるものへと転化している。展覧会名の“paintings”はこの地点に関わっているのである。

B:アナログとディジタルの対立から[fig.8]
    ところで、出品作品はペインティングとドローイングの対立とは別の対立軸とも関わっている。その対立軸とは、アナログ(=連続するもの)とディジタル(=分断されているもの)の対立である。※2
    例えば(1)においては、DVDの盤面にドローイングが描かれていた。DVD自体は、メディア、つまり入れ物であるのだが、ここではそれが支持体となっている。従って、本来中に保存されるべきイメージが盤面に描かれている、という解釈を誘う。
    だが、そうした解釈は誤りである。なぜならDVDの中に保存されるのはドローイングのディジタル・データであり、表面に描かれているのはアナログのイメージだからである。それらは決して、同一のものではない。
    またプロジェクションされたドローイングイメージと、盤面に描かれたドローイングの関係も同様である。それらもまた、同一のものではない。
    あるいは、(2)の①の「落書き」。先にこれを(1)のドローイングになぞらえたのだが、しかし、両者の間には決定的な違いがある。ここでの「落書き」はビーズを並べることで作られたもので、ドローイングのようなアナログな線によって構成されているわけではない。近づいて眺めてみれば分かるとおり、線に見えるそれは、ビーズという点が並べられていることによって作られている。
    このように出品作品は、アナログとディジタルという対立とも関わっている。そして、(1)・(2)どちらの作品も、ディジタルなものをアナログなものと誤認させ、両者を同一視させるものとして作られている。仮に誤認や同一視が行われない場合、(1)の①と②は全く別の作品だと認識されるだろうし、(2)はただの点の集合だと見なされることになる。

    もっとも、こうした誤認や同一視は、本展の出品作品に特有なものではない。先に例をあげた新印象主義の点描技法は、その最たる例である。点と点の間には物理的な意味での線は存在しない。にもかかわらず、そこに線が存在するように見える。あるいはその線を輪郭線とした面が存在するように見える。そこではイメージとしての線や面が、現象として立ち現われているのだ。
    実際のところ、こうした現象は、絵画と呼ばれるもののほとんどに共通するものである。絵画を絵画ならしめる要件だと言っても良い。例えば、人が《モナリザ》を見る時、そこに実在するのは支持体、絵具、ニスといったものだけである。にもかかわらず鑑賞者は、微笑みを浮かべる女性や3次元の空間が描かれているように見る。
    物理的な存在とは別の次元に立ち現われるイメージを、我々は、絵画と呼んでいるのである。
[fig.9] [fig.10]
    とすれば、本展出品作品は、絵画における正統な試みを示すものだと言えるのではないか。(1)においては、アナログのドローイングとして作られていた①をディジタル・データへと転換することで②の素材とし、それらを高速で切り替えながらプロジェクションする。(2)においてディジタルな点を集合させ、アナログな線や面を立ち現せる。画家が絵具という物質を用いながらも、その物質性から離れたイメージを作り出すことを目指すのと同じく、ここでの操作はいずれも、物質をイメージへと転化するために行われているのである。

    こうした認識にもとづくのであれば、本レビューの前半部分で記した出品作品が持つ「ドローイングイメージの漠とした集積」や「色彩のうごめき」といった視覚的な効果は、何を意味するのだろうか。
    すでに確認したとおり、イメージとは物理的な次元とは別の次元にあるイメージの領域において成立するものである。つまり、絵画やペインティングは、なによりも物理的な次元と完全に離れることを夢見るものである。とすれば、ディジタルとアナログの転換を通して上記のような視覚的な効果を作り出す出品作品においては、イメージの、そして、絵画やペインティングの本源が示されていると言えるのではないか。


脚注

※1 
    本レビューでは、絵画という語とペインティングという語を使い分けている。すなわち、ペインティングという語は、ドローイングの対概念として用い、絵画という語はペインティングとドローイングを包括する、より上位の概念として用いている。
    そもそも、絵画という言葉は、他の美術用語の多くと同じように、明治時代に造語されたものである。繪(絵)という語は、「糸」と「會」が組み合わされたものであり、五色の糸をあわせ縫模様をすることを意味する。すなわち繪(絵)という語には、色彩を持つことが内包されている。他方、畫(画)という字は、もともと田に界を作ることを意味し、ここから分けるという意味が生まれた。これらふたつの意味をあわせ、絵画という語は造語されている(参考:佐藤道信『〈日本美術〉誕生 近代日本の「ことば」と戦略』講談社選書メチエ、1996年、p.44)。ペインティングに対応する絵という語、ドローイングに対応する画という語を包括するものとして、絵画という語は成っているのである。

※2 
    アナログとディジタルは、量の概念における区分の仕方である。アナログは連続量、ディジタルは離散量と訳されることがある。単純化して言えば、連続量とは長さや重さなどによって測られる量のことで、離散量は数によって数えられる量のことである。例えば紙の上に一筆書きで直線を引く場合、筆を動かしている間は、線の長さは連続して増えていく。線の長さは5㎝から6㎝へ突然飛ぶのではなく、5㎝と6cmの間にある無数の長さのすべてを通過した後に6cmへと到達する。このようにして作られるものが、連続量である。他方、線の数を数える場合、5つや6つと数える。5つと6つの間には中間領域がなく、両者の間は分断されている。これが離散量である。
    日常的なアナログとディジタルの区別も、こうした基準にもとづく。例えば時計において、時間を針の動きによって連続して表示するものがアナログ時計となり、何時何分何秒という風に数字で区切って時間に表すのがディジタル時計と呼ばれる。
    本レビューにおけるアナログとディジタルの区分は、こうした区分に依拠している。両者の特徴を大雑把に言えば、アナログは、連続しているもの、一続きとしてあるもの、分かれていないものであり、ディジタルは分断されているもの、数を数えられるものと区別されよう。


参照展覧会

「中原浩大:paintings」
会場:ギャラリーノマル
期間:2011年4月23日(土)-2011年5月28日(土)

最終更新 2011年 7月 07日
 

関連情報


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